昭和48年09月21日 朝の御理解



  御理解 第68節
 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有難そうに、心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも大声をしたり、節を付けたりせんでも、人にものを言う通りに拝め。」

 その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。信心に辛抱が大事である事を、三代金光様の御言葉の中にも、「神信心には、辛抱する事が一番大切で御座います」と仰る様に。一番大切だと。言う事と同時に、次には真と言う事、真心と言う事、心にも無い事と言った様な物ではなくて真が大事だと。所謂その事如何に有難そうにと言う所から、その事が教えてあると思うんです。如何に有難そうに、心経や大祓いを上げても、心に真がなければ、神に嘘を言うも同然じゃとね。
 ですから、信心辛抱というが、この只の辛抱ではいけない、と言う事が分かります。ただ辛抱いわゆる、信心辛抱が大事だと。信心とは真心とでないと、それは空々して物になる。それは例えばただのしんぼうであると、辛抱した事によって、なるほど一つの事が成就する。けれども辛抱した事によって、返ってそのう強い我になって来る、辛抱する事によって、一つの事が成就するに致しましても、それが我に成ったのであっては、信心辛抱とは言えない訳です。
 私達の若い時に、こんな辛い事もあった。こんな苦しい事もあったけれども、其処を、もう、石にかじり付いてでも、と思うてしんぼうし抜いて。まあいうならあんた達の、まあ子供に対して言うてもです、あんた達の手足が伸びたんだ、親の御恩どん忘れちゃならんと、例えば、言った意味の事では、辛抱の値打ちがないです。本当にそれは、大変なところを通らせて頂いたけれども、信心を頂いとったおかげで、それこそ神を杖に付いての、辛抱であったから。
 今日、此の様におかげを頂いたんだ、又、事実自分の心の上にも、有り難い勿体ないの生活を、さして頂ける様に成ったんだと言うもんで、なからなければ、値打ちが無いのです。その辛抱こそ、身に徳を受けるおかげじゃと仰る。徳が受けられる様な、辛抱でなからなければいかん。いくら辛抱しても、徳を受けるどころか、返って我が強うなって行く様な事ではいけん。
 私はあの、銘々にそういう矢張り、我と言う物を、皆んな持っておりますけれども、その我が、段々無く成って行くと言う事をです、私はもう、私共から我を取り去った姿こそが、素直なというのじゃないだろうかと思うですね。素直にならなきゃ、素直にならなきゃ、信心はもう、素直でなからにゃというてもです、ならどう言う風にならせて頂いたら、素直になるかと言うとです、自分の心から我を取るから、いわゆる、我を張らんですむから素直になれるです。
 だから、生まれ付きあの人は中々おとなしくて、素直だと言うのではない様です、信心で言う素直とは、段々我がなくなって行くから、そこに何とも言えんすんなりとした、素直さと言う物がね、出来て来るのです。人間の心には右にせろと言われると、反対に左の方ばしようごたる。何かそう言う物が人間には有る様ですね。昨日もそうでした。今末永先生が毎日その、こう庭の手入れをやっているんです。最近まあそれを修行と言う風にやっているのでしょう。
もう夏ももう暑い盛りに草を取ったり、そのう色々植木の手入れをしたりする訳です。おかげで、この頃は大変綺麗になりました 所がこの頃から、垣根の剪定をやっている。所がその垣根は、下が見えない様に、 下がこう開きますと、下に何か植えてでも隠したいというのが、言わば垣根です、他所から見えない様にするのが垣根です。それで下の方ば綺麗に剪んで行きよるけんで、何人もが末永先生そんな事するなら、返って向こうがうっぽんぽんで見えていかんじゃんのち。
 何人も注意されると、いやと言わんばっかり、いくら言うたっちゃそれをして、あげな風になっとるが良いでしょうがというて、昨日言うて来ました。そりゃいかんばいちまあー言うた事でしたけれども、そう言う様な物がです、あるんじゃないでしょうか、人間には。惟は末永先生だけの事じゃない。しかもそれがいうならば、末永先生にしてみると、愛子とか公子さんあたりの様な、言うならば、自分よりも歳も少ないし、しかも女であるから言われても、ああそうねあらと言う様な風には受け難いらしいです。
 いくら人が言うたっちゃ、綺麗に下を剪んでしもうとる。あの客殿の方からこっち是はやっぱ末永先生の一つの我だと思うですね。所がそれは末永先生に限らん。そう言う物がまだあるんです人間には。だから信心でそれが本当にほんにそうだなとこう言う様な心を作ると言う事がです、なら信心だと言う事になります。人間は何と言うですかね、あまのじゃくと言う、人が右と言えば左と言うのが、是は誰でもやっぱり有るのじゃないでしょうか。言われりゃ尚すると言う様な物が。
 けども信心はそれを取るを教えるのです。我を取るのです。そこから我を取って行く内に、どう言う事が出来きて来るかというと、所謂素直と言う物が残るんです。その素直から生まれる、私は真心であり真であるのでなかったら、それは言うなら、如何に奉仕をというておっても、我の奉仕と言う事になるのです。私共は仕事と言う事を、事に仕える事だと。日々本当の御用が出来ます様にと言うて、五つの願いの中で願っているでしょうが。どんなになら炎天の暑い中に。
 例えばなら庭の御掃除、なら庭のお掃除を綺麗にする事が眼目じゃないのです。その事に仕えると言う事が仕事なんです信心では。是から是まではいっちょしとかにゃならんと言うのが信心辛抱であれば、素晴らしいけれども自分の我でです、是から是までしとかにゃならんと言うのは、もう仕事じゃないです、我です。だからそういう我を以てしでかした財産であったり、人生であったんではです、歳を取るに従っていうならば、頑固じいさんになったり、こんにゃく婆と言われる様な風になって来る訳です。
 我で仕上げて来とりますから辛抱じゃあるけど。我の辛抱だから。それで若い者も見るとはがゆうして、はがゆうして堪らんごとてって来る訳です。私どんが若い時はあげんじゃなかったと言う様な事に成って来る。所が私共が信心とはその我を取る事だと分からしてもらう。そしてそこに期せずして答えが出て来るのが素直な心、その素直な心でなからねばです、「素直心の一つにて、雲の上までも昇る道ある」と言う様な道は付いてこんです、只生まれ付きあの人はおとなしか、生まれ付き素直なというのしゃない。
 そういう人達がひとたび信心さしてもろうたり、本当に信心によって自分の我を取ると言う様な修行をさして貰うと言う事が信心。だから神に嘘を言うも同然だと言う様な、信心ではいけないと言う事なんです。それは成程ね、仕事をして例えば、末永先生の事を例に取りましたが、庭が綺麗になる、美しゅうなると誰でも喜ぶ、誰が見ても気持ちが良い。けれどもそれが目的ではいかんち云う事。
 その事に仕えるといういわば、真実の御用が出来ます様にという働きであり、仕事でなからなければ。私共が日常の生活の中から所謂我を取った生活、我を取った生き方我を取った御用であり、仕事であって始めて真実の御用が今日も一日出来た、有難しと御礼が言えれるのだとこう思うのです。だから後半の所は、その事が教えてあると思うのですね。如何に有難そうに、心経お大祓いを上げてもと言う事に。
 如何に教会のまあ皆さんお家でなさる御用だってです、此処でする御用も御用はでけども、やっぱり教会での御用は教会で毎朝婦人会の方達がこの広い所を当番受持ちで御用なさいましょ。お掃除なさいましょ。それが折角のその御用ならばです、我のない御用でなからなければ、御用にならんのだと云う事。如何になち、綺麗に部屋が美しく片づいたと、廊下が光り輝く様になったと言うてもです。
 それが我で仕上げてあるのであったら、唯そこが立派になったのであって、その我と云う物は強うなって行くばかりですから、おかげにならんです。折角させて頂く御用ですから、本当に御用に相応しい、所謂その事に奉仕する、その事に仕える。その事の仕えるという気持ち、言うならば忠実なまあー例えて、店員さんなら店員さんでも良いですがです、主人に仕えると言う事。
 だから主人が右と言いなさら、ハイ左と言いなさらハイと言えれる訳です、そう言うのを忠実な店員だと。それが主人が右と言うても、いいえ左が良いちゅうてそれでは仕える事にならん。仕えてやっとるとと同じ事。仕えてやっとるしてやっとるではです御用にはならん。信心にもならんいや、むしろ自分の心の中に、我が強うなっ行くだけなんです。我がある限り私共は一生苦労せんならん。その我の為に苦労せんならんです。
 どうでも一つ素直な信心、しかもそれで辛抱強い。此処ん所は金光様の御言葉ですね、神信心には辛抱する事が一番大切と仰る。その辛抱を大切にしながら、そしてそれが本当の信心辛抱になる事の為に、私共が愈々教えに忠実仕事に忠実、言うならば我をとっての信心、我を取っての御用と言う事になります時にです、それこそ自分の心の中で思うた感じた事だけでも、もう神様が受けて下さる程しのですね、おかげを見せて頂けるのである、頂けるんだと。
 今日はこの六十八節を、そういう意味でね、二つの分けて、信心辛抱が大事だと、辛抱が大事だと言う事だけでも、その内容がです、如何に有難そうに、心経や大祓いを上げてもと言う所を聞いて頂いたですね。如何にあの人は働き者だ、中々ようやんなさると言う風であってもです、心に真がなかったら、神に嘘を言うも同じ御用をしとると、言う事になるのです。
 例えばさばけんでもええ。それはその人その人の持ち流ですから、けれどもそれが我のない御用である時始めて、尊いと言う事になるのですから、歳をとれば取る程、所謂有難い尊いものが育って来る。それを信心が薄かったり無い人達が頑張った、若い時はこげんして辛抱したと言う様な生き方で仕上げても仕出してもです、それは我で固めた様な物ですから、それが言わば子供達に喜ばれない様な結果にしかならんと言う事をね、一つ思い知らせて頂いての信心を今日は聞いて頂いた訳ですね。
   どうぞ。